読んだやつメモ

MURAKAMI―龍と春樹の時代 (幻冬舎新書)

MURAKAMI―龍と春樹の時代 (幻冬舎新書)

読んだやつメモ、とか言いながらも、個々の感想を書くのが面倒なのでまとめてうだうだと。
なんか、すごい偏見なんですけど、新書って、馬鹿みたいだ、という思いがどこかであるのです。
それって多分、きちんとした専門書でもなくて、専門的っぽいところをさらっと要点だけを読める、っていうようなスタンスだからなのだろうけれど、これでわかった気になってるような感じはどこか間抜けだな、という思いがあるからなんじゃないかなあ。それは新書を読んでる人がそうとかじゃなくて、自戒をこめて、というのが強いんだけど、当然。
んでも、中村俊輔の「察知力」とか松井秀喜の「不動心」とか、岡田斗司夫のなんだっけ、レコーディングダイエットのやつとか、そういうのが新書のイメージで、それを全部読んでるのもどうかと思うんだけど、そういうものもある中で、何か、一応いろんな分野のことについて、てっとり早く知的好奇心を満たそうとさせるような、各社の新書って、結構好きなんだよなあ。好きだからこそ、これですべてだと思うのは、知的好奇心というイメージの危うさそのものみたいなことなんだと思う。
だからこそ、今回の本で言えば、うわー、東浩紀大塚英志ってどう絡むんだろうー、とか、そういうなんだか本質とは違うような興味とかもありながら、手に取っている自分自身が、恥ずかしくもあり、どうせ全然言ってることわかんねーしなあ、という開き直り的な思いも交じりあってもいる。

まあ、一番最後の春樹と龍についての作品を照らし合わせるような内容の本(MURAKAMI)に関しては、納得いくいかないの問題ではなくて、普通に理解はできるけれども、あとの本については、結構というか、ほとんど内容がわかってないんじゃないか、と思っている。っていうか、僕わかってないぞ! と堂々たる宣言。誰も聞いてないところで、小声での、ささやきながらの宣言。絶対きれいになってやる、そのあと、おもちをたらふく食べる! 的な。

おもちは食べたらいいじゃん、と思うわけだけど、まあ、それでも、僕は社会的な論説みたいなのは、結構好きだったりする。意味がわからないなりに、それぞれの書き手のトーンがあって、味があって、東浩紀のはまだわかりやすいと思う。だけど、大塚英志との対談での齟齬はすさまじかった。これわざとじゃないかしらん、と思うくらいに、立場の違いがあって、そこが際立っている。僕はどっちの立場がおもしろいかなあ、と思いながら読んでいたけれど、どっちもわかる部分もわからない部分も(僕の狭い理解の範囲の中で)あって、その立ち位置というか、角度の違いじゃ、かみ合わなくて当然だろうなあ、とも思ったのでした。だったらどうすればいいのか、とは僕はわからないけど、そうした祖語から見えてくるものがあるのかもしれない。
鈴木謙介のものに関しては、僕にはあんまりよくわからなかったなあー。うーん。もっと若さがある物言いでいいんじゃないのかなあ。よくわからないけど、トーンがあんまりピンとこないなあ、という印象だけれど、それは僕がきちんと内容を理解してないからなんだろうと思う。けど、最後のあたりの、世代論に収斂されてしまうロストジェネレーションの、もやもや、って感じは、すごくよくわかった。そこはとてもよかったなー。そういう部分を書くのに、慎重になりすぎたというか、丁寧にやりすぎたのかもしれないけれど、もっとそういう部分を出してほしいなあ、と思った。そのほうが、きちんと、読み物として、おもしろいと思う。まあ、そういうエモーショナルな部分がどうとか、あんまり安っぽく言うのは、こうした論説を書く人に失礼なのかもしれないけれど。

まあ、結局何が何だかわかりません、と3つの新書をまとめて言うのもくだらないと思うのだけれど、続けざまこれらの本を読んで、新書には不思議なコードがあるなあ、って思ったので、ちょっとまとめて書いちゃいました。そういうよくわからなさも含めて、てっとり早いっていうのは好きで、そこでわかった気になる気恥ずかしさを感じながら、僕はだらだら読んでしまうのです。読んだそばからぽろぽろ忘れちゃうけど。ルマンドみたいな、ぼろぼろっぷりは、ある意味で、僕の読書感を端的に表していると思います。知識にならない、何か。わからない中での、何か。
多分、教科書もそういう態度で読んでたら、大変なことになるよ! なったよ! オール3の申し子だよ! 
普通が一番。というよくあるう胡散臭い物言いを聞いて、やった、じゃあ、俺一番じゃん! と胸騒ぎの放課後。まあ、胸騒ぎってトイレに行きたいだけだけど。