竹田青嗣 「現象学は<思考の原理>である」

いきなり、現象学、って変換しようとしたら、減少額、ってなったので、へこんだ。そりゃ、そっちの方が頻繁に使うけれども。なんか、かなりわびしい気持ちになった。そんなことを最初にお伝えします。

それくらい、現象学なんてものは、僕の生活にまるで関わりのないものなんだけど、何一つ、そんな難しいことなんて考えて生きたくはないんだけども、たまに僕はそういう本を読んでみたくなるのです。大学の時、なんだか哲学とか社会学の勉強をしたはずなんだけど、まるで興味なくて、適当に試験とかやりすごしてたので、僕は全然何も覚えてない。だから、時々、どういうことやってたんだっけなあ、とか考えて、適当に本を手にしてみるわけです。もちろん、専門書なんて読むほど興味もないし、もちろん、理解できるわけがないので、なんか入門書とか、そういう感じのを読んでみて、ふーむ、とか思ったりするだけ。まるで分からないから。
だから系統立てて何かを理解するつもりもないし、そんなのは難しくて頭がおかしくなっちゃうので、さーっと読んでみて、そこで自分の何か普段考えていることにフィードバックできることがあれば、しちゃうぞ、って感じで。だから、そのままの引用で物事を考えていたとしても、僕はもうそれは誰それの言葉だとか誰それの理論だ、誰それの哲学だ、とか関係なく、僕自身のものとして、適当に、勝手にアレンジして、ゆがめて、加工して、都合よく利用しているに過ぎないわけです。

そんなわけで、現象学ってのはおもしろそうだな、って前から思ってて、1度、この竹田さんの現象学の入門書的な本を読んだことがあったんだけど、全く覚えていません。しらねえ、って感じ。だから、今回、この本を読みながら、なんか新鮮な感じがしながら、なるほど、という部分だけをなんとなく染みこませて、終わり、って感じでした。だって、ワケ分からないんだもん。僕には何かをそのまんま理解して、これは誰それの考え、これは誰それの考え、と整理することがまるで出来ないのです。そんな人の考えはどうでもいい、ってすら思っちゃうくらいに。
なので、一瞬一瞬、なるほど、この人はこうなんだ、って思い、すぐに忘れてしまいます。もちろん、理解できないことのほうがずっとずっと多いんだけど。

というわけで、現象学について、何やら言っているわけですが、僕はこの本を読んで、時間という概念について勝手に考えてしまって、時間という概念は客観的にはあるかもしれないけれど、それは便宜上あるだけのことであって、主体的にはそれぞれの時間があって、それは一定だとは言えないし、そもそも、この世の中に本当の意味での客観なんてありはしないのだから、時間なんて、ないのだ。科学的事実、というものは、あくまで便宜上のものなのだ、なんて、全然わけのわからないことを考えました。きっと、そんなわけがないので、というか、意味がわからないのです。
そんな主観絶対主義的な印象を持たれやすいから現象学ってのは難しい、というようなことを竹田さんは言っていた気がしたんだけど、その本を読んでの感想が、客観なんてねえよ、って思うところが根本の間違いなんだろうな。

って書いてることが全く意味が分からないので、もう寝ます。寝たら、全部忘れます。