「トニー滝谷」

村上春樹原作の映画を見てきたよ。満を持して。何が満を持して、なのかわからないけれど、すごい期待と不安いっぱいで行って来た。
村上春樹の作品が映画になる、っていうのは、考えられなくて(小林薫の「風の歌を聴け」は、いろんな意味で怖くて見れない。怖くは無いけど、ほんと、見ようとも思わないんだけど)、「トニー滝谷」という話が、どういう風になるんだろうー、という興味に尽きるわけだったのだけれど、まあ、見てみて、すごい良かった、と思う。少なくとも、期待を裏切られた、という気持ちは全くなくて、悪くない、全然悪くない、って感じがした。なんだか、心地良い映画だったなあ、という印象だった。

もちろん、全部が原作通り、イメージ通りだった、とはまるで思わないし、最後のあたり(トニーの奥さんの前の彼氏が出てくる部分なんて特に)は、ひどいなあ、と思うんだけど、あれだけはないんじゃないか、と思うんだけど、基本的に、いいトーンだったと思う。
この淡々とした、一人称でもない短編をどうやって、説明するんだろう、と思っていたんだけれど、ほとんどナレーションでしていた。その一部を時々、出演者に言わせる、という演出もあるんだけど、最初は、えーなんでわざわざ、と思ったりもしたけれど、それはそれでいいアクセントになっていたんじゃないかなあ、と思ったりもした。でも、すごいなあ、ほとんど作品の文章を読んでるよなあ。
だけど、それではっきりとしたのは、やっぱり、すごいすんなりと頭に入ってくるような、染みこむような、文章だなあ、って感じがした。やっぱりそこは全然違う。もちろん、僕が原作を知っている、何度も読んでいる、ってこともあるんだろうけれど、それでも、やっぱり、全然違う。他の映画のナレーションなりモノローグとは、違うなあ、ってのを感じた。それは盲目的にそう感じている、ってこともあるんだろうけど。やっぱり、村上春樹の文章は、耳で聞いても、染みこむなあ、って思った。この作品を朗読で聞いているような、そんな感じすらした。

元々、この作品は、好きでも嫌いでもなかった。春樹の短編の中でも、不思議なトーンがあって、すごく淡々としている作品だなあ、という印象もあって、何度も読んだんだけれど、特に、心に残る、これが好き、っていう感じではなかった。だけど、この作品を読むと、無機質、って、なんだろうなあ、って思ったりする。なんだろうなあ、も何もないんだけど、ほんと、無機質である、とか、そういう言い方って、ほんと、なんか、自分でよくわからなくなる。
僕自身が使う言葉としては、ものすごい感覚的な言い方だなあ、って思ってしまう。

映画を見ながら、そんなことを改めて感じていた。無機質、有機質。孤独。諦め。無感情。喜び。機械。洋服。植木鉢。音楽。
そうした一つ一つが、右から左へと流れていく。淡々としたナレーションとセリフが流れていく。そこで浮き上がらせられる孤独。というより、浮き上がらせられるのではなく、全体が、孤独だ。そこにあるのは、全て、ディスコミュニケーションのようにすら思える。しかし、全てのコミュニケーションはディスコミュニケーションなんだ、とか、そういうよくわからないような、言ったような気になることを思ったりもする。だから、この映画は、とことん、孤独だ。

そんな中で、有機的なシーンがいくつかある。その有機的、という概念すら、この映画の中では、ものすごく無機質にすら感じるんだけど、だから、すごい感情がゆさぶられたりはしないんだけど、見ていて、ああ、いいなあ、心地良いなあ、なんて思ったりもする。
でも、1番、この映画でポイントだと僕が思うのは、トニーの妻がなくなった後、大量の妻の服を、アルバイトでやってきた女性が目のあたりにする、衣装部屋のシーンだと思うんだけど、そこが、もったいないなあ、というか、あんまりピンと来なかった。アルバイトの女性はその大量の服を前に泣き出すんだけれど、そこが、すごい薄く感じられた。もっと時間をたっぷりかけていいんじゃないかなあ、と思った。衣装部屋がまたしょぼい、という印象のせいかもしれないけれど、圧倒的な量と質の服を前に、というところが伝わらなかった。そこでの泣き出す演技は過剰じゃなくて、今までのトーンでいいと思うんだけれど、それでも、なんていうか、急すぎるし、もったいないなあ。と思った。宮沢りえが、すごくいい演技をしているだけに、すごいもったいない、というか。
あと、妻に一目ぼれをしたところも、なんだか、言葉だけ、というか、字面でしかない、という感じがして、そこに説得力はいらないにしても、その恋に落ちるシーンですら、トニーらしく無機質で淡々と表したかったかもしれないけれど、なんだか、トニーの人生における喪失感、今までの孤独っぷり、というのを妻となる女性にひたすら語る、ということすら、文字で、ナレーションで終わってしまっていて、そこがなんだか、もったいない、と思った。声で出す必要はないから、そのシーンをきちんと流すことも(音楽やらナレーションのバックで、音のない映像を流す、という考え方もあるんじゃないかなあ、と思う)必要というか、効果的になるんじゃないかなあ、と思った。

そして、問題の、オリジナルのシーン。妻の前の彼氏が出てくるシーン。本当にどうしたいのか分からない。すごく無駄だと思う。そこだけが、すごいじっとりとしていて、下品だった。チープだった。ほんとに陳腐だと思う。それが狙いだとしたら、何故、原作に忠実な部分で、肉のある部分をやらなかったんだろう、と思う。ほんの少しでいいから、あったらいいのに、と思う。
だけど、最後のシーンは、すごい良かった。本当に宮沢りえは、良かったと思う。あそこまで、淡々と、無表情で、ほんとに人間らしくない感じがして、透明感があって、すごい良かったと思う。

そんなわけで、トニー滝谷は、映画でもやっぱり不思議な感じがした。すごい心地が良い映画だった。
原作が好きじゃない、読んでいない人が見て、どんな感想を持つのか、すごい興味があるよ。