「象の消滅」村上春樹

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

村上春樹の短編をまとめた本なのだけれど、元々、海外で出版されているらしくて、それを逆輸入、みたいな形で出版したやつだ。日本で既に売られている様々な短編集でそれぞれの短編を読んだことがあったのだけれど、いくつかの出版社が入り混じって、日本で売られている短編集が入り混じって、ランダムに一つになったのを読む、という感覚が、新鮮でおもしろかった。なんか、シャッフルっぽくて。

80年代、90年代に書かれた村上春樹の短編が17つ載っているのだけれど、こうやって、いつもと違うランダムな形で読むと、短編の印象、手触り、というのが幾分違って感じられた。もちろん、優れた小説、短編がそうであるように、どういう形であれ、読むたびに違った印象を受けたりするものだけれど、やはり、新しい本、というフォーマットはそうした印象を変えるなあ、って思った。装丁がすごく素敵で、既刊の本と違って本当に新刊っぽい、という理由もあるのだけれど、基本的に、これまで日本で出された短編集は、いつも最初から順番に読むので、本の中における、文字通りの位置、というものが、どうしても違った印象を与えるのだ。
だからって、内容そのものに対しての感想や感慨がまるきり大きな変化を与える、というわけでもなくて、んー、なんていうんだろう、うまくいえないけれど、読書、というのがあくまで個人的な行為である以上、その読む方の意識、というものが、常に読書というものに大きな影響を与えるし(時には内容そのものと同等なほどに)、どうしても、その、少しの変化、というのが気になるのだ。もちろん、それは悪いことじゃなくて、新鮮で嬉しい刺激だ。ほんのちょっと角度が違っただけで、景色そのものの本質は変わらないけれど、見た目は少し違う、みたいなことだ。でも、景色(目の前に山があって、少し右側が欠けていて、というようなこと)は、同じだ。

まあ、ある意味、読む側は、環境であったり心境であったり、常に変化しているわけで、つまり、いつだって、見える角度は、ほんのちょっと違う、というのが、実際のところなんだけど。でも、明確に、目に見える形(収録されているのがランダムに見える)で、おなじみの短編を読む、という行為は、なかなかおもしろいなあ、ということを言いたかっただけなのだ。そして、そういう感触を得られる、というのは、結構、嬉しい。幸せなことだ。

この「象の消滅」に収録されている短編は、だいたいが好きな作品だ。ほとんどが、何度読み返してもおもしろくて、いろんな気持ちになる。相変わらず、読後感は独特だ。短編だけを取ってみても、村上春樹は、随分と余白を残す書き方をするなあ、と思う。それは、なんていうか、説明し過ぎない、ということだったりするんだろうけれど、絶望的だったり、パセティックだったり、何故か、ほんわりとした気分になったり、そうした気持ちが入り混じったよくわからない気分になったり、そうしうた気持ちが入り混じった、良く分かった気分になったリ、とにかくそうした気持ちを抱かせる余白をきっちりと取った作品を書くなあ、と思う。
だいたい、どんな作品にでも、読後感はあるのだけれど、それでも、やはり、村上春樹のは、その読後感を与える、作品の余白、というようなものが多いように思える。これは僕が、盲目的に、村上春樹の作品のことを見ているからかもしれないけれど、まあ、僕にとっては、そういう作品なのだ。だから、僕には、そうした読後感も含めて、彼の作品、というものをしっかりと味わう、ということは随分素敵なことなのだ。

今回も、17の短編を読み直してみて、やはりおもしろかった。なんていうか、何度読んでもがっかりすることがなくって、本当に好きなんだなあ、と実感して、そういう思いが何だかくすぐったかった。
この中で好きな特に作品は、「ファミリーアフェア」と「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「納屋を焼く」、そして、「パン屋再襲撃」だ。もちろん、他のも好きだけれど、今挙げたものは、大学生の時に本当に好きだった。何度も読んで、何度もいろんな気持ちになった。あ、やっぱり、午後の最後の芝生、もいいな。うーん、好きなのが多いな。昔ほど、村上春樹の小説に対して、情熱というか、思い入れは無くなったと思っているんだけれど、それでも、やっぱり、こうして読み返す時は、いつも、様々な気持ちになり、感想もまたその時その時で微妙に違ってくる。書いてて思うけど、やっぱり、かなりのファンなんだなあ。自分でもびっくりするくらいに。あー、ほんと、村上春樹については、くだんないことばっかりを、きもいくらいに延々と話してしまうから、これで終わり。恥ずかしい。

えーと、というわけで、これはプレゼントにぴったりの本じゃないかな、と思う。ほんと、装丁が素敵だ。