「スーパーダイアローグ」 福田和也

スーパーダイアローグ
基本的に評論というのは、嫌い、というか、よくわからない。ある作品を語るときに、評論家は評論家の知識の上で対比をするから、読者がその対比を理解できないと、なんだかどういう位置づけなのか、語っている作品の立ち位置がわからなくなって、余計に混乱したりする。下手すると、肯定しているのか否定しているのか分からなかったりする場合もあるから、ひどいもんだ。
それを読者の無知にしていいのか、僕には分からない。誰かに読まれてお金が発生している以上、どこまで行っても、ある意味ではエンターテイメント、という要素は残しておかなくてはいけないとも思うし。簡単にエンターテイメント、とか言いたくないけどさ。
評論、という立場では、並列じゃなくても、書かれている物を読む、という角度から見たら、論じている作品と、その論じているもの自体は、並列になるわけだし。そういう余地がないものって、意味あるのかな、って思う。
だからこそ、評論ってのは、読者のため、というよりもまず、己のため、というものが最初にあるように感じられて、それが、読み物としてうまく機能していない時、すごく腹が立つし、がっかりもする。

この福田和也の対談を見ても、無知な僕には分からないことが多い。だけれど、町田康中原昌也がどんなことを話すのか、読みたいから、読んでしまう。そして、他の人のも、一応、読んでみる。
そして、がっかりもする。

もちろん、知らないことだって、おもしろい部分もある。なるほど、と思うこともあるし、やっぱり、知識人ってすごいね、と言えたりもする。だけども、なんだか、本当に残念で仕方ないのだ。
本を読むのは普通の、いわゆる研究者でもなんでもない人で、そういう人が読む本とかを語るときに、どうしてその人達が分からないことを、したり顔やら、真面目くさった顔やらで、知識の羅列、その確認、で終わらせているのか、って考えるのだ。
もちろん、研究として、その発表として、あちら側用に書くこと、書くべきことはあるだろうし、そのことは否定はしないけれど、でも、こちら側用に、売っている本っていっぱいあるよね。
んで、この人は、なるべく、そういう感じで、いろいろと使い分けて、こちら側にも届けるような意識をしているのかもしれないし、それは感じないでもないけど、やっぱり、なんか、読み物としてはなあ、って思う。対談、ってこんなにつまんなくていいのかな。もちろん、おもしろい部分や、おもしろい対談者とかもそれなりにあって、全体的には楽しく読めたけれども。それでも、やっぱり、届かない部分というのはかなりあって、それが余計に残念に思わせる。

この人が、前に書いた、「作家の値打ち」っていう本は、中身も、その存在価値としても、すごくおもしろいと思う。彼が点数を付けた、作家や作品に対しての価値観の是非はどうでもいいし、それは1つの基準でしかないから、そのことであれこれは言わないけど、なんか、それで終わっている、っていう感じがする。そういうことをした俺、というところで、そういう面を見せたから、という感じがして、まだまだ僕には無駄な、彼等には意味のあるようなことばかりしゃべっている感じがする。キャラを作るのもいいけど、それで終わってる感じがする。
パンクがどうこう、って、なんか、すごい恥ずかしい。パンクが、ということじゃなくて、僕には、茶髪ピアスの社会学者、という言われ方くらい、恥ずかしく思える。

もっともっと、分かりやすくて、ばかばかしい話で、頭いいなあ、って思わせてくれる評論なり、対談ってないのかなあ。読みたいぜー。そして、僕はいろいろもっともっと最初からたくさんのことを知りたいぜー。興味あることだけだけど、どんどん知っていきたいなー。
と、対談を読むたび、思う。